non-linear girl

音楽とか美術とか、日常的なこととか

それは芸術であり、芸術でないということ

前回の記事で、最近読んだ西洋美術史の本の紹介をしたのだけど、

non-linear-girl.hatenablog.com

気になったことが一つある。

最後の方にあげた作品、「デュシャンの泉」についてである。

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これは「サインが書かれているから芸術作品なのである」そうで、サインがなければただの便器なのである。

サインを書いただけで、それを芸術作品として認める人が、例えばこの記事を読んでくださっている人の中にどれほどいるのか知らないけど、僕が気になるのはそういうことではない。

 

問題は「サインが無いからと言って芸術作品ではないと、なぜ言い切れるのか」ということなのである。

サインの有無くらいで芸術作品であるのか、否かが分かれてしまうような状況で、どうして、サインさえもない”芸術”を認められないことがあるのだろうか、と思う。

 

サインが重要なのではなく、結局は見る人が、「芸術だ」と思えば芸術だし、「便器だ」と思えば便器なのである。

 

と、すれば、

例えば今自分の目の前に、さっきから便器便器言っているとなんだか気分が悪いので便器ではなく、リンゴが一つ置いてあってあったとする。

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そのリンゴを、見て、僕は思う。

「芸術である」と。

すると、少なくともこの瞬間、このリンゴは芸術なのである。

 

ところが夜が更け、夜食が恋しい時間になり、このリンゴをみて僕は思う。

「これはリンゴだ」。

すなわちこの瞬間、このリンゴは少なくとも僕にとっては芸術なんてそんなバカバカしいものではなく、生命を維持するための、大切な栄養補給源としてのリンゴになるのである。

 

このリンゴにはサインも書かれていないし、なんの細工も施されていないのに、ある瞬間これは芸術作品であり、ある瞬間食物としてのリンゴになるのである。

 

一言でいえば、このリンゴは「芸術であるし、芸術ではない」のである。

芸術であることと、芸術でないことの両方を持ちあわせているのである。

 

論理学の世界では、矛盾があるとき、矛盾から任意の命題が導出できる。

細かいことは僕も理解しきれていないからちゃんとした説明にはなっていないかもしれないけど、簡単に言うと、ある体系(世界)のなかで、「Aである」と「Aでない」の両方がある「矛盾」があれば、「Bである」とも「Bでない」とも、「Cである」とも、とにかくどんな命題でも導くことができるのである。

 

矛盾がある状態というのは、そのくらい無秩序な世界なのである。

 

つまり、このリンゴが「芸術であるし、芸術ではない」ような無秩序な世界にいると考えると、”僕”という境界が、果たしてどこにあるのだろうか、とそれさえもあやふやなのではないかという気持ちになる。

こんな世界では、僕は僕であるとも言えるし、僕は僕ではないともいえる。

 

あらゆるものの境界が不明確になってしまって、なにがなんだか分からなくなってしまう。

 

「ものは考えようさ」などと一言で済まそうと思えば、たぶん済ませられるのだろうし、一時間後には僕はこの思考をやめているだろう。

 

そして、僕は思うのである。

結局、物事は「そう信じてやまない」状態でしか、形を保てないのかもしれない、と。

「鑑賞のための西洋美術史入門」という本

西洋美術史入門という本を見つけて、細かいところはさておいて、流し読みした。

Amazon.co.jp: 鑑賞のための西洋美術史入門 (リトルキュレーターシリーズ): 早坂 優子: 本

ページをめくると、イラストが描かれていたりカラフルな説明があったり、全体的なデザインが子供向けなのかしら?といったものだったが、内容はそれなりに濃いらしく、僕らが生れれる遥か昔、紀元前とかそういう時代の”ギリシャ美術”から、現代美術に至るまでの内容が、系統的にまとめられていてとても面白かった。あとで細かいところをもっと読みたい。

 

こうして年代とからめてまとめられた本を読むと全体的な流れがわかって面白い。

遥か昔、ギリシャの時代に、アルカイックスマイルでしか"生"を表現できなかった芸術が、

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(アナヴュソスのクロース 紀元前520年ごろ)

 

像にポーズをとらせて表現の幅を広げたりして、

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(ミロのヴィーナス 紀元前100年ごろ)

 

そこから宗教とか戦争とかそういうものを背景にして発達したり、ルネサンスがあったり色んな経緯を経て、

(一文で済ますにはあまりにも雑すぎるくらい本当に”色々”とあるけど…)

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(レオナルド・ダヴィンチ 最後の晩餐 1495-98年)

 

レアリスム(写実主義)なんかが生れた。

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(ミレー 落ち穂拾い 1857年)

 

この写実的な絵から、さらなる表現を目指して、印象派と呼ばれるものができた。

僕の好きなモネなんかはこの時代なのですな。

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(モネ 印象、日の出 1873年)

 

ルノワールは今東京で「ルノワール展」やってるみたいなので、見に行きたいですね。

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ルノワール ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1876年)

 

こんな流れのなかでセザンヌは、「別に、画家は動いてもよくね?」といって※、

果物はこちらの角度から、壺は少し上から観た角度で、といった表現をした。

(※本当に言ったわけじゃなく)

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セザンヌ 果物籠のある静物 1888~90年ごろ)

 

 

こういう流れの中で、その前後にもたぶん色々あって、ピカソでお馴染みのキュビズムなんてものも生まれた。

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ピカソ オルタ・デ・エブロの工場 1909年)

 

 

そんなこんなで20世紀になると、こんな作品が生まれる。

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デュシャン 泉 1917年)

 

パッと見た感想として、「ん?トイレかな?」といった感じだが、まさにこれは”トイレ”でしかなく、市販のトイレにサインを描いただけのモノである。

ダダイズムというらしいけど、これまでの美術の常識をそっくり否定した美術作品(当時の展覧会では、これは作品として認められなかったらしいけど)が生れ、

さらには市販のスープ缶を描いて並べただけのアートなんかが生れる。

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アンディ・ウォーホル 32個のキャンベルのスープ缶 1962年)

 

たぶんほとんどの人たちにとって、現代芸術はあまりにも突拍子もなく思えるのだろうけど、こうして系統的に見てみると、結局は歴史の流れとして(ある意味当然として)生まれた変化なのだな、などと思う。例えば印象派が生れる頃の人々にとって、印象派が突拍子もなかったように、現代アートは現代人にとって突拍子もないのである。逆を言えば、これもまたいつか、ごくごく自然なものとしてとらえられるようになるんだろうな、などと思う。

 

 

僕自身、ちゃんと美術を勉強してきたわけではないので、上記の説明が適切かどうかわからないけど、とりあえずこの記事はこの辺にして、個人的な考えとか、思うこととかを次の記事に書きたいと思います。

non-linear-girl.hatenablog.com

世界から取り残される

"我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか"



まるで世界から取り残されたような気持ちになって、

ふと環状八号線を眺めたりして、

めまぐるしく動く人たちを見て、

夜の空ってこんなに深かったのかしら?
なんて思いながら、

自分がどこに向かっているのかも分からず、

なにを求めて彷徨っているのかさえも分からず、

ぬるま湯の中で目を閉じてるみたいな夜。

頑張るとか頑張らないとか

頑張ってるとか頑張ってないとか、
なにをしきい値として判定するべきなのだろうか。

体力を削ってなにかに打ち込んでいたら頑張っているのか、
睡眠時間を削っていたら頑張っているのか、
要領よくことをすませたら頑張っているのか、
うまくできていなかったら頑張っていないのか。

頑張っているとかいないとかっていうのは、事実としての状況の説明としてよりも、本人の心的なものの説明にすぎないのかもしれない。


ちなみに、言葉のあやといってしまえばそれまでだと思うけど、村上春樹の「ノルウェーの森」に出てくる永沢さんがいうことには、こうらしい。



"努力と労働は違う"

五月の夜の空

急にまた、一段と暖かくなってしまった。

春よりも暑く、梅雨には至らない五月の夜の空気は、どういうわけか、なんだか不思議な匂いがする気がする。

 
今日はやたら晴れた日で、星もよく見えている。
フジファブリックの茜色の夕日じゃないけど、東京の空の星って見るたびに、本当に"見えないこともないんだな"っていう感じがする。
 
まぁ僕の地元の星空と比べたら、とても敵わないがね。
 

名前の知らない花の香りが

住宅街。夜道を歩いていると、やけに甘い香りがした。

気のせいだと思っていたらまたその甘い香りがしてきて、ふと脇に目をやると、塀一面に見慣れない花が咲いていた。

無数の小さくて白とか黄色の花が咲いていて、惜しげもなく香りを放っていた。

 

この花の名前を、通りかかる人のうち、何人くらいが知っているのだろう。

 

4月も終わりが近づいて、ソメイヨシノはとうの昔に散ってしまったけれど、僕が知らないだけで、世界は回り続けている

 

 

 

 

のかもしれない。

自分はこういう人間です、ってはっきりと言えなくないですか?

自分はこれこれこういう人間である、っていうのをはっきりと言えないのは、語彙力不足か会話下手のせいだと思っていたけど、
実際そういうわけでもないんじゃないかっていう気もしてきた。

これは僕の悪いところでもあるんだろうけど、僕にはあんまりルーティンというものがないんじゃないかということである。
何時に起きて起きたらまず何をして、とかこういうときにはこうするとか、あんまり決まっていないんじゃないかなって思う。

その都度考えて行動するし、もちろん決まってすることも(自覚以上に)あるんだろうけど、
比較的常に考えながら、変えながら生きているっていうことなんじゃないかなって気がした。


まぁ、僕はこういう、面倒くさい人間だっていうことは、今までもこれからも変わらなさそうである。