non-linear girl

音楽とか美術とか、日常的なこととか

世界から取り残される

"我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか"



まるで世界から取り残されたような気持ちになって、

ふと環状八号線を眺めたりして、

めまぐるしく動く人たちを見て、

夜の空ってこんなに深かったのかしら?
なんて思いながら、

自分がどこに向かっているのかも分からず、

なにを求めて彷徨っているのかさえも分からず、

ぬるま湯の中で目を閉じてるみたいな夜。

頑張るとか頑張らないとか

頑張ってるとか頑張ってないとか、
なにをしきい値として判定するべきなのだろうか。

体力を削ってなにかに打ち込んでいたら頑張っているのか、
睡眠時間を削っていたら頑張っているのか、
要領よくことをすませたら頑張っているのか、
うまくできていなかったら頑張っていないのか。

頑張っているとかいないとかっていうのは、事実としての状況の説明としてよりも、本人の心的なものの説明にすぎないのかもしれない。


ちなみに、言葉のあやといってしまえばそれまでだと思うけど、村上春樹の「ノルウェーの森」に出てくる永沢さんがいうことには、こうらしい。



"努力と労働は違う"

五月の夜の空

急にまた、一段と暖かくなってしまった。

春よりも暑く、梅雨には至らない五月の夜の空気は、どういうわけか、なんだか不思議な匂いがする気がする。

 
今日はやたら晴れた日で、星もよく見えている。
フジファブリックの茜色の夕日じゃないけど、東京の空の星って見るたびに、本当に"見えないこともないんだな"っていう感じがする。
 
まぁ僕の地元の星空と比べたら、とても敵わないがね。
 

名前の知らない花の香りが

住宅街。夜道を歩いていると、やけに甘い香りがした。

気のせいだと思っていたらまたその甘い香りがしてきて、ふと脇に目をやると、塀一面に見慣れない花が咲いていた。

無数の小さくて白とか黄色の花が咲いていて、惜しげもなく香りを放っていた。

 

この花の名前を、通りかかる人のうち、何人くらいが知っているのだろう。

 

4月も終わりが近づいて、ソメイヨシノはとうの昔に散ってしまったけれど、僕が知らないだけで、世界は回り続けている

 

 

 

 

のかもしれない。

自分はこういう人間です、ってはっきりと言えなくないですか?

自分はこれこれこういう人間である、っていうのをはっきりと言えないのは、語彙力不足か会話下手のせいだと思っていたけど、
実際そういうわけでもないんじゃないかっていう気もしてきた。

これは僕の悪いところでもあるんだろうけど、僕にはあんまりルーティンというものがないんじゃないかということである。
何時に起きて起きたらまず何をして、とかこういうときにはこうするとか、あんまり決まっていないんじゃないかなって思う。

その都度考えて行動するし、もちろん決まってすることも(自覚以上に)あるんだろうけど、
比較的常に考えながら、変えながら生きているっていうことなんじゃないかなって気がした。


まぁ、僕はこういう、面倒くさい人間だっていうことは、今までもこれからも変わらなさそうである。